タカさんとの出会い

 タカさんがこのページにたどり着いたのは、“チェキッ娘”“我妻佳代”というキーワードで検索エンジンにかけたからだそうである。彼との出会いはこのページがあったからこそと思うと、本当にこのページを作って良かったと思う。
 彼との共通点は「一押し久志麻理奈ちゃん、二押し上田愛美ちゃんであること」「おニャン子クラブのファンであること」「同じ六大学であること」「音楽系サークル出身であること」などたくさんある。それを考えるとこの出会いが不思議な共通点によってもたらされたある種の運命的なものを感じてしまう。
 私はおニャン子クラブネタを中心にこのページを進めてきたが、実は彼の方がおニャン子クラブについては詳しい(笑)。彼は音楽的な部分でおニャン子クラブに惹かれたという。そんな彼がチェキッ娘にどのような思いを寄せ、どのように応援をしてきたのかをお読みいただければと思う。


(出会い)

チェキッ娘の出会いは1998、11下旬までさかのぼる
それ以前にも10月頃にも番組を見る機会があったがその時はたまたま高校生と カラオケで対決するコーナーを放映 していて「ただバカ騒ぎしてるだけだ」と思いみることもなかった。
はなしはすこしそれるが今から丁度2年前僕は知る人ぞ知るおニャン子クラブの 遅れたファンになっていた。このきっかけというのはもともと高校から渡辺満里 奈のファンを (ちなみに現在21)やっていて、大学の近所でおニャン子のレコードなどが1 00〜200くらいの値段で販売されていたのだ、まあそれで安いことだし買っ てみることにした。最初はうしろ指さされ組をきいてみた。そしたら当時のアニ メの記憶が甦ってきてその勢いでつぎつぎとおニャソングをききまくったのだっ た。すっかりその1年はおニャン子にどっぷり漬かってしまったのである。 だが時代に逆行し且つ一人で概算したグループを一人で応援する空しさは避けら れようもなかった。
そう、ひとつだけ足りなかったものそれはリアルタイムに応援できなかった事だ 。

しかし1998。11の「DAIBAッテキ」をみてから 見事なまでにそれらの空しさを払拭してくれた。まさに番組のシステムやメンバ ーの選考方法や放送時間までなにからなにまでおニャン子と共通していた。 これは本当に言葉にできないほど嬉しい偶然だった。
とはいえまだ見はじめた頃はどこかで、「おニャン子のすばらしさにはかなうま い」という考えがのこっており、少し様子を見るように番組を見ていたのだ、し かしそういう躊躇さえもファンになっていくうちにきえていった。 2月頃にはどっぷりチェキッ娘にどっぷり漬かのだった。リアルタイムに応援で きる喜び、、、おそらくこれを感じていた人は僕だけだとおもう、おニャン子の ファンになっていなければチェキッ娘のファンにもなってなかったに違いない。


(好みのメンバー)

毎日番組を見ているうちに当然の事の様に自分だけのひいきのこがでてきた。僕 はかなり好きな子はころころ変化して激しい時は同時に何人もおしていた。しか しそんななかでも唯一ずっと好みのメンバーがいた。
ID010久志麻理奈だった。
最初番組の告知をボードをもっている彼女を見て一目でファンになった。どうし てだろうか、、、基本的には全てなのだが敢えてゆうなら1:ルックスがかわい い事、ぼくの好み自体美しい人よりかわいい子がもともとタイプだった。2:な ぜか分からないが彼女を見てると妙に心地よくなるのだ、彼女の穏やかな雰囲気 のせいだろうか 3:声。上にも書いたけど可愛い声にひかれた。 4:そして おニャン子の雰囲気をどことなく感じさせた。具体的に?と言われると困るけど 自分にはそう感じさせた。


(わずかながらの不満)

そんななかでもいくつかの不満があった。まずファーストシングルからはじまる 最初はR.K作曲という事もあり期待はしていたが僕にとっては不満だった。ま ずこれにかんしてもどうしてもおニャン子と比較してしまうのだが、チェキッ娘 は全体として曲調が軽すぎる、それと自分はせつないかんじの曲を特に好む(だ からおニャン子でもNOMORE恋愛ごっこやかたつむりサンバがお気に入りだ った)のだがチェキッ娘はそういう歌が少なかった。しかし「 アニマルサマー」や「海へ行こう」は上記の要素を含んでいて好みの歌だった。 「ハダカになりたい」は特に好きで初めて歌披露された時は鳥肌がたった程だ。 もうひとつの不満は全国放送されなかった事、どうしてこんな事に拘るのか?と 思うかもしれないけど、これは前にも書いたがおニャン子という過程を経ている ためにどうしてもオリコン1位とは行かないまでもベスト10には、、という期 待があったせいだと思う。まあこれは視聴率とか色々からむから仕方ないといえ ばそうなのだけれど、、、それに関東以外に住んでいたらみれなかったわけだし 贅沢な不満かもしれない。「はじまり」リリース時は売れさせようと全国のラヂ オ局にハガキを必死に書いていた。いまではいい記憶である。
そして最後の不満は時々あった不快な企画だった。特に記憶に残っているのが4 月のGOLDの1企画でメンバーのキスをめざしてファンが争うというやつ、こ れは数回で終わったからよかったもののこのときはスタっフにたいして「本当に チャキッ娘育てる気があるの?」と思った。
などと不満を書いたが全体的にはとても満足はしていたし番組よりもチェキッ娘 自体に魅力を感じていてわけだし。


(初めてのイベント参加)

「抱きしめて」発売時はまだファンになりたてという事もありシングル発売イベ ントには行かなかったが、年が明けて1999年2月頃にはファンとして段々熱 も帯始めてテレビをみるだけでは無くイベントに行きたいという気持ちが出てき た。

始めて行ったのがChee'sの路上ライブだった。
またこの時は特典として特製カセット(限定100本)という告知もあったため に僕の気持ちを更に後押しした。まずゆりかもめの車窓から会場となる池広場前 を見た時に人の数に圧倒された、600人はいた。

なんだ大したことないじゃんと思う人もいるかもしれないが、チェキッ娘本体な らまだしもそのなかの数人出演しただけでこれだけ集客したのはある意味すごい と思った。
番組終了後も演奏は続行してビートルズのカバーなども演奏していた。この時は ボーカルはみくだった、今となっては実現できない。そしてカセットの手売りだ った予定がなぜかジャンケンによる争奪戦に変更になってしまったがみごとに運 よくカセットを物にする事ができた。そして包装されていた袋にはイラストが描 かれていた。これはりかっちが書いたのだろうか、、これは今でも一番の宝物に なっている。
そして初めて生でメンバーを見たのもこの時だった。


(4月の番組改編)

僕は12月にドリキャスを購入した。最初はおニャン子HPをネットサーフィンす るのが目的だったがいつのまにか毎日のようにチェキッ娘のページを覗くように なった。
そして2月ころに3月いっぱいで番組が終了するという噂がたち始めた。この時 のショックは8月の解散発表に匹敵するほどだった。確かその日は1日ずっと落 ち込んでいた。しかし後に「違う形で番組は続行する」という水口Pの書き込み を見て狂気乱舞してしまった。

だけど4月になってしばらく見ているうちに3月以前と週あたりの合計放送時間 はそれほど大差はなかったのだが、どこか寂しさを感じていた。
やはりたとえ25分という短い間でも生放送それも毎日やっていた事がとても印 象に残っているためだろう。やはりあの生放送の緊張感は何とも言えないほどよ かった。
改編はして欲しくなかったのが本根だ、実際「はじまり」だって一回落ちた売り 上げが最終回をきっかけにまた伸びたのだから、、、、


(売れて欲しいという事の執着からの脱却)

何度も言う様に自分はおニャン子からチェキッ娘のファンになったためにチェキ ッ娘が売れる事は当然の事の様に考えていた。またいままでアイドルとは全く無 縁の生活をしていたためにアイドル氷河期という実態も知らなかった。
或る日「抱きしめて」発売を前にしてネットサーフィンをしていると「たぶん3 0位良くて20位くらいだな」という書き込みがあった。その時はそんなバカな と思っていたが、リリース後カウントダウンTVでランクインするのを今か今かと 待ち望んでいたが50位以内に登場しなかったのである。
その時はわが耳を疑ってしまった程である。当然ベスト10に入りその次のステ ップとして武道館ライブ成功を納め代々木体育館も成功させ、1位も獲得次々に ソロデビューをはたし最後はドームで、、、という無謀なまでのシュミレーショ ンをしていた程だ。
その後はネットやハガキでラジオのリクエストを書いていたが一向にブレイクの 兆しはなかった。
確かにそのことではかなり不満ではあったが、ある日公式ホームページのメンバ ーにメールを送ろうという企画を見つけたので麻理奈ちゃんにメールを送信して みた、もともと返事が来ることなど期待してはいなかった。
ある日そのコーナーを何とはなしに覗いて見たらなんと直筆の返事が掲載されて いたのだ。しかも丁寧にイラストまで描かれていた。
これを見た時の感動はとても言葉に出来るような物ではなかった。ほんとにファ ンやって良かったと思った。と同時に逆にブレイクするかなんてどうでもよくな ってきた。実際ベスト10に入ってしまう様なグループになってしまっていたら 、直筆メールの感動など味わえる筈も無いのだから
それに加えて、僕以外にも多くの人達に丁寧な直筆メールを書いているメンバー を益々好きになっていった。仮にスタッフに書くように言われたとしてもファン を大切にする気持ちがなければあの様な心のこもった文は書けない。


(チェキッ娘だからこその応援の仕方)

とても嬉しかった事はチェキッ娘の歌はファンが合いの手を打てるという事だ。 例えば「アニマルサマ〜」の一節の部分「あ〜お昼寝してるワンピの裾を〜」で チャ〜チャチャッ(拍手)フ〜(歓声)や、また「まりな〜」等のコールができ る事だ。
ZEPPの時は皆が全て応援の合いの手はまだ揃ってはいなかったけどラストのNKホ ールの時の応援は本当に良かった。おそらくこんな風にきちっと応援の仕方が決 まっていた歌手は現代ではいないだろう。また毎週視聴者が参加できる番組だっ たからこそ、こういう応援の仕方ができたのだろう。
特に皆で拳を突き上げる所等は揃っていて何度も後方のスタンドの方を振り返っ た。本当に光っているペンライトとともに揃った応援は綺麗だった。そういう意 味では客席の雰囲気を伝えられるライブビデオの発売も楽しみだ。
それともう一つにこれはおニャン子のハッピにも共通するがNKのファイナルコン サートで見かけたイチオシの子の刺繍やプリントを張り付けたシャツを着た人達 を見た事だ。
これを見た時はなぜか分からないけど妙に嬉しかった。それに「この人はりにゃ の刺繍してる」とか「らんらんの刺繍だ」とか不思議な程皆分かれていた。そう いうのもなんか愉しかったしチェキッ娘だからこその応援方法なのだと思った。


(他局の出演)
元々チェキッ娘はフジテレビが全面に押し出していたために他局出演はますない だろうと思っていたけど、下川みくにがソロになった事で思いがけないNHKやテ レ朝などの他局出演が相次いだ。

これはとてもうれしかった。なんでかうまく言えないけど他局に出る事でなぜか みくが大物になったような感覚に自分がなったためだと思う。そしてミューステ に関しては大物歌手と肩を並べていたことがとてもうれしかった。


(必死のチケット争奪)

僕は前にも話した様に今までこれほどにファンになったことがなかったのでチケ ットをどうやって取ったらいいのか解らなかった。そしてチェキッ娘は売り上げ に反比例するかの様にコンサートの人気はすごかったので、チケットを獲得する のにかなり苦労した。ZEPPの時はまず先行予約でまったくつながらず、発売当日 も1時間電話で粘るも全くつながらずつながったと思えばすでに売り切れの始末 。

すっかり途方にくれ、もうコンサートは無理かと思いつつ最後F-IRANDOに問い合 わせた所まだ少し残っているとのこと、ただしいつ売り切れるか解らないといっ ていたので、電話を切るやいなやお台場へダッシュした。この時はゆりかもめ新 橋駅の長い通路を人目を気にせずダッシュしたのを覚えている。とにかく無我夢 中だった。


(やっぱりまりなちゃん)
最初好きになったのは、まりなちゃんだったがしばらくしてから他のメンバーに 乗り換えもかなりしていた。今となってははっきりは思い出せないけど、あいみ 、りにゃ、矢作、あやの、えりねえ、らんらん、、、、と留まることを知らなか ったが、やはりベースにはまりなちゃんがキープしていた。魅力についてはもう 話したからいいと思うけど、やっぱり理由はよく分からない、、だけどやっぱり いいんだな。


(少しファンの気持ちが冷め始めた頃)
実は解散時こそファンの熱は見事に取り戻したが4月改編を堺に少し冷めていた 時期があった。やはり毎日生放送をしなくなったせいが大きかったのだろう。そ してマンネリを少しずつ感じていたのもあったし、曲に関しては自分好みの歌も あったもののイマイチと思った曲も正直あった。しかし8月頃からの解散するの では?という噂をきっかけにまた息を吹き返してきたのだ。


(解散を知って)

以前から噂になっていた解散が8月下旬の雑誌の記事掲載によって確定的になっ た。この時からまた熱が復活してきたのだ。それまではまだ終わらないだろうと いう安心感も手伝って冷めていたけど、いざ解散の期限が決まるとやっぱり人間 というのはあせるものだ、一気に熱が復活してきたのだ。

同時に解散を知った時のショックもかなりあった。こういう感情も始めてだった 、でも3月の時点でいちどこういう経験をしたせいかそれほど悲しみに暮れては いなかった。


(泣くことのなかった最終回)

解散コンサートに合わせてその2日ほど前に最終回を初めて見た。掲示板の書き 込みをみると泣いたという意見が多かったので自分もてっきり泣くのだろうとお もっていたけど実際はそういう事もなかった。前もって「つるべーさんが涙して ましたね」等の筋書の書き込みを見てしまったせいもあったが、とにかくあっと 言う間の最終回だった。



(現在つづきを執筆中)