“チェキッ娘”というプロジェクトはフジテレビ水口プロデューサーが作ったものだと言われることが多いが、正確に言うとそれは違う。
昨年秋にセガエンタープライズからセガサターンに変わる128ビットゲーム機としてドリームキャストが発売された。話に聞くところによると、セガはこのドリームキャストの宣伝費に13億円という資金を投入することにし、これを放送作家出身の作詞家である秋元康氏に託したそうなのである。『社会の窓』など秋元康氏が直接制作に関わったものや、秋元康事務所の協力という形で作った番組があり、チェキッ娘の関わった『DAIBAッテキ』『DAIBAクシン』は協力という形だった。
秋元氏とセガはおそらくこう考えたはずである。「中高生向きの番組を作り、そこにおニャン子クラブのようなアイドルグループを結成させることによって中高生のファンを増やし、その番組にドリームキャストの宣伝を流しまくれば必ず売れるはずである」
果たして13億円のうちのいくらを投入したかは定かでないが、仕掛け人秋元康によって『DAIBAクシン』と“チェキッ娘”というプロジェクトは始まったのである。
水口昌彦プロデューサーは、おニャン子クラブ時代にADをしており、「マイケル水口」として知る人ぞしる有名人である。京大出身の水口氏はおニャン子クラブ時代には勉強係として、チェキッ娘では中島さんと同じ役割を担っていた。
乙女塾の時代に水口氏がどのようなポジションでどのように関わっていたのか私はよく知らないのだが、とにかくこの経験を買われた水口氏が“チェキッ娘”というプロジェクトの最高責任者として任命されたのである。
その水口氏がいつも念頭においていたのが、今から14年半前にスタートし、わずか2年半だったにもかかわらず、出す曲がほとんどオリコン初登場1位を記録し、中高生だけでなく全国的な社会現象にまでなった“おニャン子クラブ”である。
私はそのブームの当時中学生であったが、夕方5時は「夕やけニャンニャン」、深夜のラジオは毎日チェック、オリコンや「ザ、ベストテン」「歌のトップテン」は毎週のようにチェック、部活に生徒会に勉強に忙しかった身でありながら生活はすべておニャン子クラブで回っていた。
チェキッ娘はまず『DAIBAッテキ』という『夕やけニャンニャン』とそっくりの番組のオーディションで集められた。「テレドーム投票」とか「脱ぎカラ」とかという新しい手法は取られたが、オーディションとバラエティを上手く組み合わせることによって、あの当時を思い出せる番組になる・・・はずだった。
しかし、現実はそう甘くなかったのである。
1998年10月9日に初代チェキッ娘としてID:006までが選出された。そのわずか1ヶ月後の1998年11月8日にデビューシングル『抱きしめて』の公開レコーディングが行われた。いろいろな映像を見る限り、ここにはたくさんの報道陣がつめかけ、「平成のおニャン子が衝撃的デビュー」という見出しが(小さくだが)紙面を飾った。
この曲はどういうコネか(と言っても水口氏しかいないと思うが)上原多香子などを手がけるЯ・K氏のプロデュースでできた「片思いの切ないながらもさわやかな曲」である。おニャン子クラブのデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』が「ちょっぴりエッチ風な曲」だとすると対照的な曲である。
かくして1998年12月9日、チェキッ娘のデビューシングル『抱きしめて』がポニーキャニオンより発売されたのである。
さて肝心の結果だが、オリコン初登場48位、登場週数2週、トータル売り上げは8410枚だった。ちなみにおニャン子クラブは初登場で2位、トータルで18万枚のセールスを記録している。とにかくチェキッ娘のデビューはおニャン子クラブとは比べものにならないくらいさんざんなものとなってしまった。
チェキッ娘はID:021までの20名で募集打ち切りとなった。これはおニャン子クラブ時代も終始20名前後で推移していたので基本的な法則に則った人数だったのだろう。我々の側としても30名いると多くてわかりづらいし、10人だと少ない感じがするのでちょうど良い人数だったと思う。プロジェクトで顔と名前が一致するベストの人数が25人と言われているので、それを考えても妥当な数字だったのではないだろうか?
そして、最初は私もばかばかしいと思って数回で見るのをやめてしまった『DAIBAッテキ』も、年末のHEY!^3スペシャル、番組自体の1時間スペシャル、チェキッ娘の各種イベントなどを通じ、放送時間が16:25からの30分であるのにもかかわらず、徐々に人気が出てきた。
私はまだチェキッ娘とは遠いところにいたが、3月の上旬に番組の視聴率が過去最高を記録していた。
そのような環境の中で、2ndシングル『はじまり』が発売された。これは意味的にも時期的にもおニャン子クラブの『じゃあね』を連想させる曲である。
オリコン初登場は40位とデビュー曲に比べて少し高いくらいだったが、7週連続のランクインでチェキッ娘のシングルの中で最も多いトータル32450枚の売り上げを記録した。
曲が良かったのか、CM効果があったのか、番組の人気上昇に伴う結果なのか、とにかくロングヒットしたのである。
『じゃあね』の歌詞は「春はお別れの季節です みんな旅立って行くんです」ではじまる。プロジェクト開始1年後、この曲で中島美春と河合その子が卒業した。
同じくチェキッ娘でもプロジェクト開始半年後に『はじまり』で卒業したメンバーがいる。ID:002下川みくにである。下川みくには最年長という年齢的なものや、リーダー的な少し抜きん出た存在、人気、歌唱力などでソロデビューがあるとしたら有力であろうと思われていたが、単なるソロデビューではなく、プロデューサーにあの広瀬香美がつき、アーティストとしての一人立ちという点を重視して“チェキッ娘卒業”という形が取られることになった。
この卒業に関しては結果論的に賛否両論がある。客観的なデータを見ればデビュー曲よりも2曲目の方が売り上げが落ちているし、お世辞にも「売れている」ような結果であるとも思えない。それだけを見れば「あと半年チェキッ娘にいたら違った結果があったかも知れないし、チェキッ娘の人気も違っていたかも」と言う声があって当然だが、プロダクションやプロデューサーサイドは「アーティストとしてのイメージにチェキッ娘というアイドル集団的なイメージを嫌った」のではないかとも思えるし、逆に「育成プロジェクト」という観点からすれば「一人立ちできる環境に行けるのならうちにいる意味はない」と判断した可能性もある。
とにかく、1999年3月31日を境にチェキッ娘は19人となり、下川みくにと根本的に区別されるようになった。
チェキッ娘にとって大きなターニングポイントになったのは、1999年4月の番組改編・・・俗に言う「4月改編」である。
『DAIBAッテキ』は月−金の16:25から30分間の生放送であったのに、『DAIBAクシン』は月−木が16:25から5分間の録画、金が16:25から30分間の生放送、土が13:00から1時間の録画という形に変更になった。
一見、週5回が6回になって放送時間が増えたように見えるが、時間数で見ると150分が110分になっており、「夕方の生放送」という緊張感が週5回から1回になり、結果的にここからチェキッ娘プロジェクトのじり貧が始まった。
この時の改編は、当時17:55からの「ニュース枠」が拡大され17:30からになったため、「ドラマ再放送枠」が16:30からの1時間になり、これにともなって『DAIBAッテキ』の行き場がなくなってしまったのである。そのため、16:25からの5分枠ということで『DAIBAクシン!!チェーン』が開始され、金曜日だけは『DAIBAクシン!!GOLD』が『DAIBAッテキ』の名残として残された。
ただ、平日の夕方でも早い時間になってしまった反省を生かして、土曜日の13:00に『DAIBAクシン!!ちぇきべえ』が新設された。狙いとしては『笑っていいとも増刊号』のような形で「土曜から入って平日に」という流れを作りたかったようである。私もちぇきべえから入った手合いなので、この戦略はある意味成功したのかも知れない。
昔の『週間スタミナ天国』の時間帯に始まった『DAIBAクシン!!ちぇきべえ』の番組評価は人それぞれである。DAIBAッテキのような毎日生のバラエティの方が良かったという人もいる。
「あの程度のドラマの演出しかできないのか」「プロダクションの思惑が見え隠れするぷぅ野麦峠」とか、批判する人の意見は尽きないが、個人的に言わせていただければ、この番組によってチェキッ娘にはクリーンなイメージができたと思う。
私も「意図的に作られた感動」のようなものは確かに感じたが、それでも毎週楽しみに見ていたし、何よりもこの番組の雰囲気のもとにいるチェキッ娘に惹かれていったのでこの番組は良かったと思う。
番組意義としてチェキッ娘メンバーの個性や特に名前などを覚えるのには非常に役立ったと思う。毎日の生放送だけではカバーできなかった部分をうまくカバーできた番組だったのではないだろうか。その意味でも鶴瓶師匠の起用もすごく良かったと思う。
この番組をきっかけにして今後の仕事に役立てられるメンバーがいると良いと思う。
1999年7月に1stアルバムが発売された。
このアルバムはオリコン初登場19位、初動で1.8万枚を売り上げた。シングルの売り上げが低迷を続けるなか、なかなかの成績をあげたのではないかと思う。
このアルバムには『会員番号の唄』を思い出させるような『チェキッ娘音頭』や、ほとんどのメンバーがどこかに所属しているユニットなどがあり、バラエティに富んだ内容になったと思う。
1999年7月下旬に地方キャンペーンがあった。札幌、名古屋、大阪、福岡にメンバー数人が参加してのキャンペーンであった。
ただ、このキャンペーンがどのような意図のものであったか今でもよくわからない。
このキャンペーンをきっかけに全国展開をはかるのかと言えばそうではなかったし、このキャンペーンには水口プロデューサーが直接関係しているわけでもなかったし、このキャンペーンでポニーキャニオンが得をしたこともなかったような気がする。
個人的にはこのキャンペーンをきっかけにいろいろなことがあったので良かったが、どう考えてもこのキャンペーンがプロジェクトにとって意味のあることだったようには思えない。
1999年7月31日、8月1日にZeppTokyoにて1stライブが行われた。
チケットは即日完売、追加公演までされるという盛況ぶりであり、連日2500名のファンが集まって大成功に終わった。
チェキッ娘メンバー同士が、ファンとチェキッ娘メンバーが1つのライブ会場で1つになった瞬間がそこにあったのだが、たぶんこの瞬間がチェキッ娘にとってのクライマックスだったのかも知れない。
1999年夏は、チェキッ娘にとって最も熱い季節だったに違いない。
夏のイベントはまずM@Mのデビューイベントから始まった。それに重なるように全国4カ所での地方キャンペーンと下川みくにの2ndシングル発売イベント。息つく間もなく1stライブ。
一区切り付いても休むことができなかったのがMETAMOで、都内各所でデビューとインストアイベントが目白押しだった。
また、サテライトスタジオでのラジオ出演も多く、オンエアの何時間も前からファンが集まるといった光景が見られた。
そして夏休みを締めくくる8月31日に上田愛美のデビューイベントが行われ、1500人のファンが池袋の会場を埋め尽くしたのである。
1999年8月24日はチェキッ娘ファンにとって衝撃的なニュースがあった日である。
FLASHにインタビュー記事として「DAIBAクシン!!3番組の終了」が水口プロデューサーのコメントとして掲載されたのである。
この記事について私はコラムで水口プロデューサーを批判する発言を書いた。これは真相として「もっとファンを気遣う発言をしていただきたかった」という点のみを言いたかったわけで、痛烈な批判ではなかったことをご理解いただきたい。
合わせるように同月27日にサンケイスポーツ紙に「卒業コンサート」という記事が載り、その前日に届いた大瀧彩乃からのファンレターの返事にあった「この曲でチェキッ娘は終わりなんです」という文章と合わせて、実質解散が明確になったのである。
そのようなニュースの中、唯一の明るい話題は上田愛美のソロデビューであった。
前半の半年で下川みくに、後半の半年で上田愛美がソロデビューという栄冠を勝ち取ったのだが、下川みくにが広瀬香美のプロデュースであるのに対し、上田愛美はチェキッ娘の布陣そのままを受け継いだ形でのソロデビューとなった。
上田愛美はプロジェクト終了前の駆け込みセーフのソロデビューとなったが、このソロデビューをきっかけに彼女自身の精神的な成長を私はすごく感じた。まだ高校2年生の彼女は、確かにDAIBAッテキ時代は我がままなところが目立ったが、一人でやって行かなくてはならない状況になるのに際して考え方をずいぶんと変えたようである。
売り上げ的にはチェキッ娘本体とほぼ同じ売り上げであったが、今後はそういったバックグラウンドもなくなるので、彼女の2nd以降に多いに期待したいと思う。
さて、水口プロデューサー他の証言によると、チェキッ娘というプロジェクトは1年間の限定プロジェクトだったそうだが、果たしてそれは本当なのだろうか?
冷静に考えてみたい。もし最初から本当に1年以上やるつもりがなければ、何らかの形で私たちにそう伝えたはずである。もしそう伝えてくれれば私たちファンの応援の仕方も違ったような気がするし、期待が膨らんだところで急に終了という発表は私たちには非常にショッキングであった。
これは多くの人がそう思っているが、基本的にはチェキッ娘がおニャン子クラブの半分かせめて4分の1くらいでもヒットすればこのプロジェクトに存続はあったはずである。そのためにいろいろな仕掛けを後半戦に行ってきたが、基本的には不発。関東ローカルということも響き、ヒットには至らなかった。
これでは本来の目的であったドリームキャストの宣伝もうまくいくはずがなく、多額の資金を投資した広告にセガは4人に1人がリストラされるという状況に陥ったそうである。広告塔チェキッ娘の関東ローカルがセガの市場調査だとすれば、ビジネス的に打ち切るというのは当然の判断だったのかも知れない。
DAIBAクシン!!3番組は9月いっぱいで終了した。
この1年間を振り返って、水口総合プロデューサーはどうだったのだろうか?
あまり偉そうなことを言うつもりもないが、私は基本的に素晴らしい活躍をしていただいたと思う。このようなプロジェクトを任せられる方がフジテレビには他にいなかったはずであるし、経験等も含めてこれ以上の適任者はいなかったと思う。ただ、それを踏まえてあえて少し辛口なことを書きたいと思う。
水口プロデューサーは番組づくりに関しては長けていたかも知れない。しかし、楽曲づくりなどの戦略的なことが問われる部分においては向いていなかったような気がする。
これは言葉を換えれば「戦術家ではあったが戦略家ではなかった」ということになる。このプロジェクトを通じて、水口プロデューサーはチェキッ娘をきれいにまとめることができたが、マニュアル通りだったという点で意外性がなく、その意味で塾や猫を経験した人向けの領域を超えることはできなかった。
これに対してつんくのプロデュースやASAYANのプロデューサーは番組とそれに関わったユニットをうまく市場に出している。つんくは楽曲を作るセンスもさることながら、マーケットリサーチ能力にも優れていたと思う。これがモーニング娘。の大ヒットを生んだ一番の要因だと思うし、人の感情に訴えかけるというこの不況期の戦略で成功したのだと思う。
本人にとっては愛嬌だったかも知れないが、番組内で水口プロデューサーの名前や映像があまりにも出過ぎていたのも、私としては気になった。おニャン子クラブの仕掛け人、笠井一二氏は確か画面には出てこなかったはずである。この笠井一二氏がおニャン子ブームを生み出したのは、水口プロデューサーの持つ番組作成能力とつんくの持つ楽曲のプロデュースセンスと戦略をすべて兼ね備えてたからではないかと分析する。
このプロジェクトの基本的な敗因はどこにあったのだろうか。
その原因を「アイドル氷河期」という時代のせいにするかも知れない。だとしたら、モーニング娘。や鈴木あみ、広末涼子、深田恭子のヒットの説明がつかないだろう。
私は「不況という本物を求める時代にアンマッチなプロジェクトだった」と分析している。今は世の中不況である。おニャン子クラブが大ブームになったあの好況の時代と同じことをしてもやはりうまくいかなかったのだと思う。今、時代は本物志向である。本物でしかも安くないとものが売れない時代である。そこに気づいてうまく戦略を打てたのがつんくのモーニング娘。であって、これに対して昔と同じ方法にこだわった水口プロデューサーのチェキッ娘は見事に惨敗したのである。
また、チェキッ娘は企業色が強かった。セガの広告塔という役割を担っていたチェキッ娘には、おニャン子クラブ時代に次々とソロデビューをさせていたソニーが参入できなかった事情があったと思う。
このせいかどうかわからないが、結局仕掛け人秋元康と後藤次利というゴールデンコンビはプロデュースに出てくることはなかった。もし全国展開ができていたならわからないが、このゴールデンコンビの曲がチェキッ娘というフィールドで聴けなかったのはすごく残念である。
プロジェクトとしてのチェキッ娘は、「メンバー全員の卒業」という形で終わることになった。あくまで「解散」という言葉は使わないという姿勢である。
このような考え方についても賛否両論あると思うが、個人的には「一年間で打ち切られることが決定したプロジェクトに取って付けられたストーリー」のようにしか見えない。
「全員卒業」という形になったことで確かにチェキッ娘は水口プロデューサーサイドではきれいにまとまったかも知れない。しかし、チェキッ娘メンバーに一人立ちできるだけの実力がついたかどうか非常に不安である。本当に卒業証書が授与できるような実力をつけられるだけの育成プロジェクトだったのだろうか?
このプロジェクトはセガと秋元康氏がプレゼントしてくれたものだったのかも知れない。
水口総合プロデューサーも雑誌に「遊ばせてもらった」とコメントしているので、基本的にはそのような意味しかなかったのかも知れないが、もう少し違う方法を取ればまったく違った結果が出ていたかも知れない。
このページは永遠に残すつもりなので、今後同じようなプロジェクトを行う際に少しでも参考にしていただけたらと思う。
1999年10月31日 BATCH
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