俗に“チェキ男”と名づけられたチェキッ娘ファンには大きく分けて2種類のタイプがいたと思う。チェキッ娘のような集団育成プロジェクトが初めてだった人、過去に同じ系統の育成プロジェクトのファンをしていた人の2タイプである。
「中高生にとってのアイドルは鈴木あみかモーニング娘。」そんな時代に同時進行型のチェキッ娘というプロジェクトは開始された。ごく普通の女の子が毎週のオーディションで合格し、次々とメンバーが増えていく。そして家に帰れば彼女たちを毎日30分間、ライブで見ることができる。そんな環境の中、たまたまつけたテレビを見て彼女たちのファンになった人はいたと思う。
しかし、それを言えば日曜のゴールデンタイムに行われているASAYANや、もっとメディアに出てくるアイドルのファンになるほうがごく自然である。恐らく、ある意味で質の高い音楽が求められていたアイドルでは満たされなかった中高生たちが、徐々にチェキッ娘にはまってきたという見方のほうがふさわしいのかも知れない。
こういったファンとは違い、私のようにおニャン子クラブや乙女塾を経験している人が大学生以上の世代で数多くファンになっているという事実もある。このような経験者にとっても、チェキッ娘が出てくる前のアイドル業界には何かしらのもどかしさを感じていたと思う。確かに今もてはやされているアイドルは抜群にかわいいし、歌も踊りもうまい。でも、何か出来すぎていてすぐ飽きてしまう。また、あまりに売れすぎているために応援のしがいがあまりない。きっとそんな感覚にとらわれながらも、ただ単に目先のアイドルを追っていたような気がする。
そんな中で始まったチェキッ娘に、こういったファンは一般ファンより確実に早くはまっていったのではないだろうか?
意外と多い「はまった理由が自分でもわからない」ファン
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いろいろと話を聞くと、チェキッ娘になぜはまったのかわからないファンが多い。
私は13年半前のおニャン子クラブ時代のことがあるからその説明はたやすいが、そんな私も「なぜおニャン子クラブにはまったか?」と聞かれると返答に困る。きっと答えはひとつではない。当時男子校に通っていたこと、中学受験で小学校時代にテレビをあまり見られなかった反動、そんななかでもベストテン番組だけは見ていたこと、春休みでたまたまテレビを見る機会が多かったこと、メンバーに高井麻巳子さんがいたこと、うしろゆびさされ組みの曲にはまったこと・・・それぞれの要因がたまたま重なり合った結果としておニャン子クラブにはまっていったのだと思う。
きっとチェキッ娘ファンになった人も、きっかけは一つではないのではないだろうか?
おニャン子クラブの場合は、これも複数の要因があったと思うが“社会現象”といわれるような空前のブームとなった。夕方の番組では異例の最高視聴率18%を記録し、毎週のように出るレコードは当時としては信じられない記録となるオリコン初登場1位、セールスも毎回10万枚を超える大ヒットであった。
しかし、チェキッ娘は予想外に売れなかった。もちろんおニャン子クラブと比較するのはあまりにもかわいそうだが、インディーズで5万枚のCDを4日間で完売させたモーニング娘。に対して1万枚にも満たないデビュー曲の売り上げ。これがЯ・Kプロデュースなのであるから本当に信じがたいことである。
しかし、売れていないことが逆にファンにとっては良かった面もある。私たちは常にチェキッ娘とそのメンバーがブレイクする夢を見つづけることができた。もし彼女たちがおニャン子クラブのようなヒットの仕方をしていたら、少なくとも私自身はモーニング娘。と同じような見方でしか彼女たちのことを見ることができなかっただろう。
また、売れないということは、言い換えればそれだけ身近であるということでもあった。あまり売れてしまえば新橋駅はパニック、メンバーはゆりかもめなどには乗れず、タクシーで移動・・・そんなことになっていたかも知れない。しかし、新橋に行けば彼女たちに会えたし、地方キャンペーンに行けばいちばん近い所で彼女たちに接することができた。これも売れなかったゆえのことで、ファンにとっては売れなかったことがかえって好都合だったかも知れない。
しかし、ファンは決してその現実に満足していたわけではない。地道にリクエストをしつづけてきたファンや、5枚、10枚とシングルCDを買い込むファンがいたことを私は知っている。私にはそれができなかったから、そのようなファンのかたがたには敬意を表したいと思う。
最近の新しい応援のチャネルとしてインターネットというメディアが効果的に活用された。これは少なくともおニャン子クラブ時代や乙女塾時代にはなかった文化である。見方を変えれば、アイドルを応援するにあたって、それがルックスとか楽曲とかという“ヒト”“モノ”の部分だけでなく、“情報”という点へのウェイトが高まったとも言えるだろう。
応援するファンにとってインターネット環境にあるか否かは大きな違いになった。最新情報はインターネットがいちばん早かったし、アンダーグランドな情報もインターネットがもっとも盛んであった。ファンの価値観として、昔は生写真とかそういうものが押している娘をある意味独占するためのものになったが、最近はそう言ったモノではなく、いわゆる過去ネタや住所や電話番号のようなものが、ネット上においてそのような役割を果たしたと言えるだろう。結局突き詰めていけば、そのような情報を知っているからどうこうという類のものではないのだが、「その娘の情報をいかに多く持っているかということが応援の強さである」というような雰囲気があったような気がする。
また、私はほとんど関わらなかったが、トレカという応援グッズも流行った。このトレカというツールはファン同士の交流を深めるには有効なグッズとなったようである。
1999年夏・・・チェキッ娘ファンは、どのアイドルのファンよりも熱かったような気がする。
夏休み入りたての7月はM@Mのデビューイベント、全国4箇所での地方キャンペーン、下川みくにの2ndシングル発売イベント、そしてもっとも熱くなれた1stライブ。また、関東各地のサテライトスタジオでは毎週のように公開放送が行われ、ファンは放送の何時間も前からスタジオ周辺に列を作った。
そして、夏休みの最終日はサンシャインシティに1500名ものファンが集まり、上田愛美のソロデビューを祝った。
とにかくファンにとって最高に充実した夏休みだったと思う。
そんな熱い夏の最後にチェキッ娘プロジェクトの終焉を意味する記事がマスコミに載った。
多くのファンはプロジェクトの終わりが告げられることにおびえながらも、「あと半年あれば・・・」という希望を持ちはじめていた矢先のショッキングな記事であった。
多くのファンは、ある意味で「そのときが来るのはわかっていた」という気持ちと「まだ来てほしくなかった」という気持ちが入り組んだ複雑な気持ちでこの発表を聞いたと思う。
私たちはその記事の信憑性を確認するとともに、そのショックから立ち直るのに少しだけ時間を要した。
そして、最後までしっかり応援するという決意を固めるのであった。
私たちファンにとって、チェキッ娘は今まででいちばん身近に感じることのできたアイドルだったのではなかっただろうか?テレビや雑誌に出てくるのに、少し手を伸ばせば届くところにいる。そんな不思議なバランスが私たちファンにはたまらなかった。
チェキッ娘は1999年11月3日でそのプロジェクトを完了したが、見方を変えれば彼女たちが活躍のフィールドを広げただけであって、毎週のように入ってくる新しい情報を聞いていると、まだまだ始まったばかりのような気がする。
そして彼女たちが忙しくたいへんな生活の中で、毎日何かにチャレンジしていた姿は、私たちファンに限りない勇気を与えてくれたと思う。
そんなファンは全員、彼女たちに「ありがとう」を言いたい気持ちでいっぱいだと思う。
1999年12月29日 BATCH
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