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ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 砂嵐のようにざらついた、嫌なおとがする。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 絶え間が、亡い。 音はいつまでも響き、感覚を磨耗させる。 それは、思考を掻き毟る異音だった。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 ……煩わしい。 そう思わずにはいられない。 ああ、煩い。 本当に――うるさい。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 耳を塞ごうと思った。腕が動かなかった。 音の原因を追求しようと思った。何も見えなかった。 不思議に思う。その懐疑すらもノイズに掻き毟られた。 (………………) ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 まとまらず、散在し、バラバラと削られて、毟られていく思考。 時そこに至り、はじめて。 ようやく、自分がどんな状況なのか理解した。 視界を確保できぬのは、採光の調節が喪われている為だ。 腕が動かぬのは頚椎を破壊されている故で。 だから動かぬのはなにも腕だけではない。 足も、掌も、指のひとつすら、満足に動かない。 不動作は四肢全体。根絶は己が身の総て。 視覚は言うに及ばず、耳朶も消え。 体表を打つ雨の触覚すら、徐々に希薄になっていく。 総てが喪われ逝きつつあった。 因は何か――――模索する。 帰結はすぐに出た。 それは頚椎を破壊されているからではないだろう。それが原因ではないとは確かに云えぬが、だがそればかりとは云えなかった。おおもとの因とすべき、それは―――― 胸を穿つ、巨きなきず。 螺旋を描くように抉られて、循環をつかさどる器官が微塵に潰されていた。 其れだけではない。 目に視えぬ腐食が、きずあなからじゅくりと全身を蝕んでいた。 雨が、胸の傷ばかりに集中し、侵すように全身に滲みわたっていく。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 ――まったく。酷い話だ。 これではどのような術をもってしても復元することが適わないではないか。 ……どのような術を、もって、しても? ふとした懐疑が芽生えた。それもノイズに掻き毟られた。 ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。 (………………) 状況は把握した。因は突き止めた。 では、その末路は? 考えるまでもない。 「ク――」 シンプルすぎるその解に、思わず嗤ってしまった。 なんのことはない。自分は終わっているのだ。 崩れ、喪われているのだ。 ただ鎮かに……壊れていく。 この感覚。 「ハ、ハ」 それを自分はよく知っていた。知らぬ道理などなかった。 呼吸をするように自分は、それを相手に与えつづけてきたのだから。 「ハハ、ハ、ハハ」 だが、ついぞ知らなかった。 これがこんなにも穏やかで、鎮かものだったとは。 いつだってこれを与えられた相手は、苦悶に顔を引き歪め、己を失うという喪失感に怯え、悲鳴をあげていた。 それは自分にとり、極上のエサだった。 支配と云う名の絶頂。 そこに魅入られて、だからこそ自分は、いつだって己が牙をふるいつづけてきたのだ。 それは絶望だった。 それは恐怖だった。 だが、いざ蓋を開けてみたらどうだ。 「ハハ、ハ、ハ、ハ」 喪われていくのは、融けていくのと同義だ。 感覚という識があるからこそ、自我は現実というステージに立脚する。 ならば。観測行為の壊れた自我にいったい、どのような個と全を分け隔てる壁があるのだろう。 いうなれば、それは【融和】だ。 無我に溺れて、沈んでく永遠。 そこには荒ぶる感情などない。 とても静かだった。ほんとうに、ほんとうにとても鎮かなものだった。 この、永劫に比べれば。一時の苦痛なぞ、充分に支払われて然るべき代価なのではなかったか。 それを、なぜにおびえる道理がある? 「ク――――」 愚かしかった。わからなかった。 笑いたく、無知という名の罪を見た気がした。 だからこそ、そんな卑小が赦しがたかった。 だが、なによりも赦しがたいのが―― そんな卑小を極上の贄としていた、自分自身だった。 「ハハ、ハ、ハハハ」 ……痛い。愚かしくて、痛い。情けなくて、痛い。築き上げるつもりなど毛頭なかったが、それでも自分を突き動かしていたモノ総てが無意味なのだと知らされて笑いたくなる。どうしようもなく笑いたくなる。ばかばかしくて、本当にばかばかしくて、だからこそ笑ってやりたかった。 「ハハハハハハ、ハ、ハハハハハハ」 哄笑した。吐き出した。己の愚昧さを。みずからの卑小を。それらすべて決別させるように笑った。だが笑っても笑っても吐き出しきれない。 だから笑った。狂ったように笑った。 「ハハハハハハハ、ハハ、ハハハハハハハ」 いずれは消える。喪い、融けて、自分は世界に還っていく。 その時にはこのような余分など、綺麗に痕跡を亡くしてくれるだろう。 いまはそれが救いだ。 だから、それが一秒でも早くくればいい。 願った。切に願った。 いままであらゆる回避によって、忌避し続けてきたその現象を一刻も早く、受け入れたかった。 【死】という、名の、現象を。 「ハハハハハハ、ハ、ハハハ、ハハ――」 笑った笑った笑った。 笑い尽くした笑い尽くして笑い尽くして笑い尽く――――ざしゅ。 ……異音。 「――――――――」 鋭いなにかが喉を貫いた。声帯が停止した。 衝撃に触覚が激しく乱れた。刹那、感覚が甦った。 海の底より望む海上に揺らめく、光の波に似て。 視界の闇がほのかに揺れて、剥がれた。 「勘違いしないで」 そして耳にはノイズを破り、女の声が。 オンナノ……コエ? (………………?) 闇を凝視する。 仄かに明度をあげた視界は闇でありながら、それはすでに形象(かたち)の知れぬ虚無(やみ)ではない。 その、なかで。 闇よりもなお濃い、ひとつの影がみえた。 それはヒトのかたちをしていた。 それは容貌に、青く蒼い、一対の凍える光をやどしていた。 そして右の頬には、淡く、白純(しらずみ)に浮かぶ十字。 横臥する自分のすぐ傍に……屹立して。 「………………」 その手には、剣(つるぎ)。 刀身は照り返しをゆるさぬほどに漆黒(くろ)く、鋭利。 切っ先は自身の喉を貫いている。 双眸は浄(あら)われたように青く、凍えるように冴えて、冷たく蒼い。 それは魔性を纏いながらもその属性を殺す、そんな倒錯した匂いが在った。 「魂を殺されるお前に還る場所などない。あるのはただ――消滅。それだけ」 声もまた、抑揚がなくてとても綺麗。 感情などという一切の余分を剥いだ、冷たい響きだ。 それはとても、死に近い音色だった。 己を凌駕し、君臨する至上稀に視るしにがみ。 (ああ……そうか) 思い出す。 自分は負けたのだ。この女に。 完膚なきまでに斃され、殺され、いま死を、自分は女に与えられようとしていた。 それはとても屈辱的な事のはずだった。 だが不思議と、そこに憤る思いは微塵もなかった。 なぜならば。 女との戦いには悔いがなく、悔いが残らぬほどそれは、満ち足りた死闘だったから。 (………………) 本当に女は常軌を逸していた。 余韻に浸るよう、思考は過去を反芻する。 そう。 漆黒の髪をなびかせ、法衣をはためかせ駆ける女の歩法はまるで、時間が逆行するかのように疾く。 セイバーの疾る軌跡は、そのまま空間を断ち切るかのようで。 唱えたテクニックは世界、そのものを破壊させるほどの威力を秘めて。 迷いもなく、逡巡も見せず、女の持つ殺害技術は、対象である自分と向かい、相対し。 殺意には最高の純度があった。その純度を曇らせぬだけの技巧を女は持ち合わせていた。 だからこそ勝敗の帰趨など問題にならず、それはどこまでも満ち足りた殺し合いになれたのだ。 「ねえ」 女は黒いセイバーを突き刺しながら、云う。 「なぜ私のような異端が世界に赦されているか、わかる」 ……余分な言葉だ。ざらつくような不快をおぼえた。 この女はいま、呪詛を云おうとしている。それは死に融けるモノには意味のないコトバだ。 呪いは、生きるものにこそ効果を発揮する。 そのような自分の不快を知ることなく、女は呪詛を吐きつづける。 「世界は世界を殺すモノを認めない。その抑止として【教会(ラダーン)】は存在する。異端の粛清。それを執行するために私という異端は世界に赦されているのよ」 ……異端。 そうだ。確かにこの女は常軌を逸していた。 世界に赦されるにはあまりある異能をもちあわせていた。 あのとき。 (そう……ならば視せてあげる) 静かに閉じ、ゆっくりと開かれた双眸は、互いに異なる色をやどしながらも、まだヒトの遺伝として在りうる色から遠く、遠くかけはなれていた。 青く、蒼く、冷たい、死を、覗く、蒼い、魔眼に。 変質して。 (【 】を――開いてあげるわ) あの瞬間、女の細胞はひとつひとつ、その末端に至るまでカタチを違えることなく変質していった。 あの瞬間、本当に女は世界に在ってはいけないモノになった。 あの瞬間ヲ、自分はよくおぼえている。 青く、蒼い魔眼が見開かれ。 右の頬には、白純(しらずみ)の十字が、淡い光を放ち。 そして。
【 】 、 が。
事象を明記する。そんな単純なことすらできぬほど、それは靭(つよ)く。 記録を遺すのが愚かしくなるほど、威力は鮮烈で。 ただ、記憶の欠落した空白のなかで。 【 】が具現したのだけは、理解していた。 胸の、巨きく穿つきずだけが鮮明にそれを識(し)った。 「お前は、私に殺されるのよ」 過去を反芻する己の意識を、死神の冷たい声が呼び戻す。 「世界はお前を赦さない。世界はお前を認めない。ただ異端である――それだけならば、捨て置いてもよかった。でも、お前は無視されなかった。なぜだか、わかる」 「――――――」 問い掛けられても、答える術などない。 魔眼が、嘲るようにゆらいだ。 「お前の異端は、世界を停止させるから……だから、殺すの」 ゆらぎは簡単に、もとの超越を取り戻した。 ……余分な時間だ。思わずにはいられなかった。 まるで理解できなかった。なぜ女はこうも意味のないことを語るのか、その意義がわからなかった。まったく、女らしくない。その余裕めいた呪詛は実に人間的で、だからこそそこに堕落しようとしている女が赦せなかった。 不快に思った。不快は憎しみに変わった。憎しみは簡単に殺意となった。 ――ごう、と。 黒い炎が、爆ぜる。 炎は激しく燃えて、憎しみを殺意に、醜く織りあげる。 それは女とは対を為す、余分だらけの杜撰な殺意だった。 殺したい。壊したい。砕きたい。 足の腱、腕の腱、ひとつひとつが千切れる音を聞きたい。 骨がひしゃげる音色を。脳髄が飛び散る様を眺めたい。 乳房も、臀部も。淫口も。 女として在る、その美しさを。 ズタズタに、潰し、たい。 ぐちゃりと。 肉塊へ。 どろりと。 朱い、血に染めて。 女でなく、雌に。 すべての尊厳、自負、高潔を。 ただの豚に。 犯してやりたい。 ……堕しててやりたい。 …………穢してやりたい。 やりたい。やりたい。やりたい。 ヤ――リた……イ。 (ク――――ハ、ァ、ハ――) 枯渇する。渇望する。 癒えない。魂の奥底が渇いて、痺れをあげる。 ――――アァァaaa……。 それはなんという悦楽か。痺れるほどノ陶酔か。 (クハ、ハハ) 笑った。笑うしかなかった。 声は出ない。だから。 声帯が停止しているぶん、心のなかで笑った。魂の奥底から笑えた。 (ハ……ハハ、ハ、ハハ) 殺意は心地よかった。あるはずのない血脈のなかを汚濁がどくどくと流れ、己の魂がすみずみにわたって黒ずみ、腐敗し、渇き、生き返る心地だった。 それは――――オレだ。 (ハハハ、ハ、ハハハハハハ) 「……まだ、喪わないのね」 女の声がわずかに、訝しげに揺らいた。 セイバーを握る女の手に力がこもる。 予感した。最後だ。 明確なまでの死が、自分との決別が訪れる。 「グガ――ァ」 剣がひきぬかれた。 女の魔眼に変化はない。 青く、蒼く、清浄に、光を放ち。 オレを――射抜く。 (………………) 生粋の死神が殺戮者となり、己を砕く。 蟲惑的なシチュエーション。 黒き剣は鋭利に、微塵に、きっと必ず自分を抹消してくれるだろう。 死は訪れる。だが自分は死なない。 この殺意は呪詛となり、女に憑いて、いずれ女を殺す因となる。 呪詛は吐くものに還る。 まったく。愚かな事だ。 自分などよりはるかにその理へ身を置く女であれば、それを知らぬ道理など、ないはずなのに。 (………………) いや――だからこそ。 より、その理に身を置けばこそ、女は呪詛を吐いたのだろうか。 みずからを蝕む負の想念。 それすらをもまた、おのが識とするために。 (――――――――) では。この殺意は。この憎しみは。 喰らうのではなく、喰われるために、在るのか。 (ク……ククク) だが、それもまたよかった。 どのような形であれ、自分はまた、この女を殺す過程を愉しむ事ができるのだから。 剣は高々と掲げられ、切っ先は無蓋の天に向かう。 あとは、その刃がふるわれるだけだ。 (……………………) それまでの刹那が、永劫に続く悪夢のように思えた。 ジワリと、剣が揺らぐ。 どろりと、刀身が熔ける。 それは限りなく有機的で醜く、視るに絶えない。 そして融解は気化となり、黒き腐食は昏い霧となった。 【霧】は女に収束し、女の内部(なか)に収納された。 女の手に剣はなくなった。死を与える威力は文字通り、霧散した。 「な――――ゼ」 そう、この潰され、機能をなくした声帯は、はたしてコトバを吐き出せたのかどうか。 「是非になど意味はないわ」 女の言葉は簡潔だった。 「私はお前を殺した。けど殺しきれなかった。ただそれだけのことよ」 ……魔眼が、遠い。 「私が殺すことのできなかった異端は、それだけで意味があるのよ」 その声がなにを語るのかわからない。理解できない。 「僥倖ね。お前は世界に赦されたのよ。確かにお前の【地獄】は世界を停止させる因になる。だけど、もしかしたらそれは、世界に孵化を促す因なのかもしれない」 そんな言葉、知らない。自分が欲しいのはもっと、もっと別のモノだ。 「どちらにしても――お前という異端は私の【贖儀】をもっても意味を喪わなかった。いま在る事実は、それだけ」 死神は淡々と語った。理路整然と、己の論理を説いた。 違う。違う。違う。違う。 なんだそれは。なにを戯言を云う。 お前はコトバではないだろう。 お前は刃のはずだ。血に飢えた衝動――オレと同じく、お前はそんな邪(よこしま)な象りから生まれるハズのものだ。 なのに――なんだ、ソレは。 酷い齟齬。酷すぎて、回路が倒錯する。ゼンゼン、心地よくない。 この歪みは違った。ぜんぜん違っていた。 女は眼を閉じた。頬に浮かぶ白純の十字が消えた。 同時に。 身を打つ雨の触覚も消えて。 魔性が途絶えたことで、女を拒絶していた世界が開かれた。 魔性が消える。魔性は消えて、昏い夜は暗い夜となる。 侵されざる神性は闇とともに断ち消え、かわりに普遍的な世界がそこに舞いもどった。 (…………) 建造物やタワーが影となり連なる、シティの情景。 ここはそんな、路地のうらがわ。 手や、足や、肉や、臓物や。 骨や、指や、眼球や。 ――そして。 ペンキのように散った朱い血が。 綺麗に醜くシティを濡らしている。 それは己の渇きに任せておこなった、虐殺の痕跡だ。 雨などなかった。 もとより星も月も知らぬ模造の天体に、雲などないのだ。 ただ高い高い、その距離の果てにはドームの天蓋があるだけで、それは闇に隠れていた。 ――パイオニア2未整備地域。 市民IDを持たぬ者たちが集い、ひとつのコミュニティーとして機能しているエリア。 正式な名称は不定。ただ、俗称として……【淵(アビス)】と呼ばれている。 ここはそんなエリアだ。 整然と情報をなぞる思考が、自分にこの場所がどこか――それを伝えた。 遠くで、爆音が轟く。 光源のない闇空のなかで、ときおり刹那に瞬く、オレンジの閃光。 (…………) どうやらまだ、戦闘は終わっていないらしい。 サイコウォンドの探索より端を発するこの戦闘は、オークション会場から一部のエリアへと飛び火し、混乱する暴徒を従えて、いまやアビス全域を巻き込む大火にまで変貌を遂げていた。 もとより存在が認められていないものたちが集い、結成されたコミュニティーである。 それを軍の権限により一掃するのに、いかほどの障害がありえようか。 残忍をもって名を響かせる【TEAM06】である。当然、そのシティの制圧に容赦などありえようはずがない。否。それは制圧などと云うコトバすらなまぬるく――もはや、「粛清」とよぶより他がなかった。 闇空にまたたく、オレンジの閃光。 その光が呑む命は、当たり前のように女も子供も隔てがない。 生きていること。在ること。それ自体が罪だと言わんばかりに。 熾烈を極めるアビスの粛清は、いまもなお続く……。 ――なんだ。 ――なんのことはない。 ――これはただの、それだけの道化の続きなのだ。 それはあまりにも些細な出来事で、その些細な出来事が戻ってきたことが酷く愚かしかった。 「……ぐたらない時間だったわね」 ゆっくりと開いた女の眼は、もうあの青く蒼い、美しく凍えるよう魔眼ではなかった。 左は朱く。右は碧く。 互いに異なる色合いをやどす、ヒトとしての遺伝として充分に在りえる、そんなつまらない瞳の色に戻っていた。 違う。それは違う。そんなのは、違う。 あの満ち足りた殺し合いは女の奥に秘めた、【 】に昂揚して繰り広げられた、至福の時間だった。それは女も同じだった。だからこそ余分などなく、だからこそぎりぎりのなかでお互いを高められた。 なのに、なぜ一方的に矛を収める。そんな酷い道理がある。 女もそれはわかっているはずだ。 最後の一線――。 それをなぜ越えない。 これだけ事をしておいて、なぜそれを認めない。 すべては同じなのに、なぜそこで踏みとどまる。 なぜだ。なぜだ。なぜ。 な――ぜ。 異なる色を持つ、女の双眸は、横臥する自分を写す。 その奥にひそんでいたはずの、神象図形(シシル)すらいまは視えない。 かわりに湖面のように揺らぎのなさがあった。 それはヒトとするにはあまりにも鎮かだった。 ヒトとするには感情を殺しすぎていた。 (…………) ヒトとする、に、は? 「――――――」 唐突に気づいた。天啓と呼べるほどそれは突然で、脈絡もなく、にも関わらずすべてがしっくりとくるほどそれは明確だった。それ以外、もう考えられなかった。 ……愚かなことだ。 最後の最後で、この女はヒトで在りたいと願っている。 これだけ卓絶した非情の才を持ちながら、女はその嗜好を嫌っている。 だからこそ理由をつけなければ殺すことができない。 だからこそ情に飢え、その指向を塞ぎ止めている。 そんなことだから――オレに死を与えることすら、できない。 それはなんと愚かな、つまらぬ属性か。 「…………」 笑った。憎悪に笑った。 笑いながら、思った。 ならば。この女をヒトに繋ぎ止めているモノはなんだ。 その邪魔な檻。それがあるからこそ女はこんなにも不自由なのだ。 紅い髪の銀髪の殺人鬼。アレと同じように焦がれるモノがあるからこそ、この女も最後の瞬間に完全になんてなれないのだ。 なんて、愚か。なんて、憎い。 なぜにこうも自分を凌駕する存在は、そんなにも弱いのだろう。 解放されれば、それはいつだってどんなモノすら殺すことだってできるのに。 解放されれば、それはいつだってどんなモノすら殺すことだってできるのに。 解放されれば。 ……いつだって。 笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。 限りなく循環する憎悪。 この感情は容赦など認められるレベルではない。 殺すだけでは赦せない。陵辱では贖えない。 どんな苦痛も、苦悶も、苦しみも、この憎悪(いた)みの前では、無価値。 いや、それ以前に。 求めているのはそんなことではないのだ。 ただ、ただ、ただ――ただ、ひとつだけ。 女が、絶対であること。余分を捨てきること。 自分がいま求めるのは、ただそれだけだった。 女は恐怖なのだ。恐怖は絶対なのだ。 だからこそ、女は頂点に君臨しなければならないのだ。 ならば。
それを邪魔するのは、なんだ?
結論を辿るまえに、情動は悦びにいきついた。 身が震える。哄笑でココロを示せぬぶん、身が堪えようもないほど蠕動する。陶然とした境地に自身を誘う。 考察は実に愉しかった。あらかじめ与えられた解を定められた方式で解きほぐすような、そんな単純さがありながらもその過程には、これ以上にない愉悦がひそんでいた。 そう。そんなことは実に簡単なことなのだ。 女がヒトに焦がれ、ヒトでありえたいと希むのならば。 自分はただ、それを断ち切ればいい。 絆ならばその絆を。 痕(きずあと)ならばその痕を。 壊してやればいい。穢してやればいい。暴いてやればいい。 それだけですむ。 これはそんな、単純な解なのだ。 情などという愚昧な色で発揮される技巧など、もとより興味はない。 欲しいのは理由ではない。 純粋な、殺意。それだけに突き動かされて世に在りえるヒトガタ。 自分自身でそうでありたいと希みながら、なれずにいるヒトガタ。 それだけだった。 いまあるこの殺意は、そのためのものに違いなかった。 笑った。笑った。笑った。 笑いながら、はじめて自分はこの殺意に愛しみを感じた。 ああ、そうだ。愛おしい。狂いたくなるほど愛おしい。 それはもはや。 憎悪などと云う生易しいモノではない。 恐怖などという頼りないモノではない。
――恋慕だ。
女の持つ、純度の高い濃密な衝動。 カセの知らぬ、はずれた殺害技巧。 留まるコトすら奇跡に等しい異端。 そのすべてが愛おしかった。 これほどの余分を殺いだ存在など、ついぞ自分は知らなかった。それはムダを知らない美しさであり、だからこそそんな余分に焦がれて、みずからの純度を穢そうとしている女がとても憎く、かわいそうに思えた。 なんと不条理。なんという不自由。 だが、そんな脆弱な鎖、砕くには己の爪で充分すぎるのだ。 (――クク、クク、ク、ククク) ……愚かだ。殺すことに目的ができた。 女は自分を殺せない。女は非情になりきれない。いや、.非情という、そんな余分すら壊さなければ、きっと女はみずからを昇華させることなどできないだろう。 だから――自分が、それをヤる。 女を解放するために。自由を与えるために。 そのためにこの爪を、この牙を、己の存在すべてを自分は女のために行使しよう。 それは、なんと甘露に等しい殺意か。 「ギ……ハ―――ヴァ」 身を焦がす恋慕は心地よかった。自分を見る、女の目が無情であればあるほど、焔は激しく燃え、盛り、猛り、狂わんばかりだった。 「…………」 女の身が翻る。地に響く靴音。それも、徐々に遠くなる。 遺されたのは静謐な、路地のうらがわ。 そこには、己が標した証が在った。 肉や臓物。千切れた手や足や、悲鳴すら途絶えてモノ云わぬ死者の貌。 眼球の抉られた眼窩は紅く濡れ、その血がまるでおのが悲痛を嘆く涙のようだ。 だが絶命は、慟哭すらをも拒絶する。 ぶちまけられた鮮血は、まるでアートのように凄く綺麗。 この醜怪さは、崇高なまでに高められた純度と等価だった。 あらゆる光輝をもってしても凌駕する闇そのものに他ならなかった。 それは、最上と云えば最上と呼ぶべき寝床であったし、この横臥は屈辱と云えば、これ以上になく屈辱的な横臥だった。はたして地に倒れ伏す君臨者など、いったいどこの世界にありえよう。 まったく、なんと戯事じみたことか。 だが――いまはその屈辱すら、愛しい。 身の根絶も、癒えぬ傷もまた、女を恋慕する証と思えばこそ、聖痕に等しくなるのだ。 「ア――ェ」 待て、と。そう云うたつもりだった。壊れた声帯はそれをつむぐことすらできなかった。 「ェ……ア……ギ」 執拗に、語をつむぐ。しかし意は形にならず、異音のみが排出されるばかりだった が、その意がとどいたのか、それとも他の理由があったのか。 女は、足を止めた。 女は、この路地裏と現実の境い目に屹立していた。 それが、なにやら女のありさまをしめしているようで可笑しくある。 身こそは、人が住まう仄明るいセカイへ向けられているが、影は―― 【こちら側】と確実に伸びている。 そうだ。それこそが真実であり、絶対的な本質だった。 女を【こちら側】へ呼びもどすことができるのは、きっと自身の技量をもってしか為しえない。 まったく、それを想うだけでなんとこの身の焦がれることか。 女は、背で静かにいらえを待っていた。 だが――嗚呼、コエが出ない。意を、女に伝えられない。 しかし、その不自由すら愛しい。この身の傷すべてが、このさき女へ傾ける呪詛の発露と思えば、そんはなんと心地の良いことだろう。 笑うしかない。魂を揺らし、もはや嗤うより他がない。 「……ロザリオ・アイリス」 それは。己が倒した者の意を汲み取り発したいらえであるのか。 それとも。置き遺した呪詛の総てを完遂すべく発した、最後の杭と呼べたのか。 ともあれ、女は云った。 「それがお前を殺そうとしたモノの名よ」 コトバは簡潔で、無駄がない。 「憶えておくなら憶えておきなさい。捨ておくならそれでもかまわない。どちらにしても」 語句をきり、女は【こちら】を振り返る。 あちら側に屹つ女の貌は、やはり異端だった。 白すぎる肌は命すら視えない。 湖面のようにしずかな風情を称えた、色の異なる眸はヒトとしては、無情すぎた。 白と黒。そのコンストラクトで構成された司祭のローブは、それがいと高き聖なる証なるものか、それともよこしまな、悪魔(デヴィル)の徴(しるし)を意図するものなのか、わからない。 ただ、首にかけた銀の逆十字が――罪を嗤うように踊っていた。 それはさながら、女をさいなむ魂の痕(きずあと)であるかのようだった。 朱い唇が、最後のコトバを刻む。 「もう二度と会うことはないのだから」 そう、決別だけを残して。
女はきえた。
吹くはずのない風に同化して、もとよりそこにはないもなかったのだとばかりに。 あとには、なにもない。 ただ、路地のうらがわの惨劇だけが、君臨するあるじをうしない闇にひろがるのみで。 (…………) それは、陽のもとにてらされることを厭う、閉じた世界だった。 その――狂った世界の中心で。 (ク、ク――ハハハハハハ、ハーハハハハ) 力を剥奪されたケモノは嗤う。 いずこにとどくことなく、捩れた想いはつみあげられていく。 想いは狂気と呼べた。狂気は尽きることをしらなかった。 しずかに、しずかに嗤う愚かな道化。 ――刻は動かない。 己が築いた楽園に伏すケモノには、そのありさまを誇示する爪や牙がない。 あるのはあまりある憎悪、それだけ。 だが、それをしるすには、ケモノは無力だった。己が焦がれるヒトガタに威力を剥奪されてしまっていた。 ――ゆえに、刻は動けない。 だからこそあのヒトガタが憎い。だからこそあのヒトガタが愛しい。 憎く、愛しく。愛しく、憎い。 消すには惜しく、消すだけでは事足りぬ存在。 もう、笑うしかなかった。動けぬぶん、おのれのありかた総てをかけて奥底より嗤うしかなかった。 動けぬという――この不自由すらをも女を想う聖痕ととらえて忘我に浸りながら……。
・ ・ ・ ・ ・ ・
――静かに。 意識(ぞうお)が堕ちていく。 茫洋とし、総ての感覚が希薄となり融けていき、そこには、闇すらもが亡い。 この感覚は、死と呼ぶには程遠く、ひとときの眠りと呼ぶには根絶が決定的だった。 ただ、堕ちてでいく。 そして――視えたのは。 深く、永い……己が開闢する以前より蓄積され、渦を巻く記憶の群。 千の時をゆうに越えるその蓄積は、すでにテクノロジーの範囲を超えていた。 其れは技術の域を越え、魂の神秘に到達し、飽きたらず、総ての根源へ至らんと超越者の場に足を踏み入れている。 世界の絶対的な秩序。その抑止を、みずからをもって為す【一神教(ラダーン)】が認めた数少なき至宝禁忌。 ――オメガタイプNo7・ハウンド。 それは、世界の裁定者たる【刻の十字架】をもってしても、根絶することがかなわなかった禁忌だった。 【刻の十字架】は云う。 その手に殺せぬモノは、それだけで世界に赦された存在である、と。 世界に孵化を促す因。その未分を殺す権限を、彼女は赦されていない。それはまた同時に、抑止代行者がもちうる力の限界でもあった。 かのものは知らない。己が爪に、その牙に、はたしてどのような力が内在するのかを。 なにをもち禁忌とされ、なにをもちその可能性が認められたのかを。 すべては霧中の只中にあり、それは神ならぬ身の上においては見渡すこともできなかった。 ただ、禁忌は眠る。 猛威をふるい、奮いながらも途絶えたこの憎悪を胸に、次の未来を待つがまま……。
――静謐な、地獄(Silent Gehenna)。
その地獄は、次にくる決定的な破滅を予兆させるのに、あまりあるものだった。
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