この章を最後に締めくくる章として、私自身のチェキッ娘ストーリーを語りたいと思う。
1998年秋にチェキッ娘とDAIBAッテキ!!が始まったことはテレビで見て知っていた。その頃、確かに興味があって番組を何回か録画したり、放送を見たりしたような記憶があるが、これといった印象はなかった。夕やけニャンニャンを始めて見たときと比べると、インパクトや番組の内容が違ったからなのかも知れない。
なぜなのかわからないが、イメージとして単なるバカ騒ぎ番組という印象しか持てず、結局これ以降この番組を見ることはなかった。
そしてチェキッ娘のイメージも薄かった。当時録画したビデオには、一押しの久志麻理奈ちゃんがいたのにも関わらずである。
そのブランクが約半年近くになろうとしていた。
私自身は仕事が変わって毎日がとても忙しく、いろいろな面でストレスや疲労がたまってきていた。
そんな疲れを癒してくれたのがテレビであった。帰りが遅いので、録画したものをまとめて見るという形で仕事とテレビの間を行き来する生活になっていた。
アイドルという存在も多少は自分を癒してくれていたような気がする。至極当然な成り行きとして、鈴木あみとかモーニング娘。とかの出る番組やCDとかを少し買っては楽しんでいた。
仕事は毎日忙しく、新聞を見ながらのビデオの録画もなかなかたいへんだったため、ある日週刊のテレビガイドを購入することにした。これは本当に便利だった。いくつもある番組をあらかじめ蛍光ペンでチェックするだけで何日も先の番組がチェックできるのである。
そんなチェックをはじめた矢先、土曜日13時のフジテレビの欄に『DAIBAクシン!!ちぇきべえ』という番組があり、出演者にチェキッ娘と書かれていた。私自身の中では「チェキッ娘は下川なんとかだけが勝ち残って解散した」としか思っていなかったため、まだ続いていたことに驚き、そしてほとんど無意識にその番組を録画するに至ったのである。
とは言え、特にこの番組に重きを置いていたわけではない。逆にまだASAYANの方が自分の中のウェイトは高かったように思う。
1回目に録画した放送(4月下旬)はなんとなく見流したような気がする。ただ、DAIBAッテキとは違って番組自体が落ち着いた雰囲気になっていることが私自身の印象を高めたことは確かである。そして、次の放送も録画することにしたのである。
そして運命の第2回目の放送(5月上旬)でいちばん輝いていた娘がいた。それはID:010の久志麻理奈ちゃんである。スリーエフのCM撮影で20回のNGを出したり、NEOちゃの歌い出しがあったり、とにかくその日の放送でいちばんカメラに移っていたのである。
彼女の存在は、私自身にとっておニャン子クラブ会員番号16番の高井麻巳子さんと同じである。はじめてテレビ画面を見て受けた印象がとても似ているのである。彼女の姿をずっと見ていたくて、その日の放送は何度も繰り返し見たのを覚えている。
そして、たった2週分の番組を何度も繰り返し見るうちに自分の中に長い間眠っていた何かが目を覚ました。もう10年以上も前、おニャン子クラブの解散以来忘れていた感覚である。
それがどんな感覚なのかを文章で表現するのは難しいが、とにかく何かに熱くなるという感覚がにわかに芽生えたのである。
この感覚が戻ってしまうともう手のつけようがない。たった数週間の放送やインターネットを通じて19人のID番号と顔を一気に覚えた。最初上田愛美ちゃんと藤岡麻美ちゃんの違いが区別できずに戸惑ったが、土曜日の番組は丁寧にID番号をテロップ表示してくれたのでとても楽にメンバーを覚えることができた。
そんなこんなで、私自身は急速にチェキッ娘にはまっていたのだが、自分の中では「これは一種の病気みたいなものであるから仕方ない」という感覚で割り切ることにしていた。自分の意思よりも感覚の方がすでに先行していたのである。
当時、私は25歳。大学を卒業してソフトウエアの会社に2年間勤めたあと、個人事業主として独立してからいろいろなことを経験していた。アイドルにはまってしまうという精神年齢はあの頃からほとんど成長していないかも知れないが、ものの見方という点では当時とはまったく違っている自分がいた。
それは“プロジェクト”という見方である。おニャン子クラブを見ていたとき、私はテレビ画面に移ってくるメンバーのことしか見えていなかった。しかし、今になってみるとそれは氷山の一角であって、見えている部分を支えている部分の方が圧倒的に大きく、その巨大な氷山全体がプロジェクトであるという見方ができるようになっていたのである。
“プロジェクト”とは言いかえると“ビジネス”である。当然のことであるがチェキッ娘は単にかわいい娘を集めてオーディションして、歌わせているだけではない。それを統括する総合プロデューサーがいて、マネジメントをするスタッフがいて、スポンサーがいて、テレビ局があって、レコード会社やプロダクションがある。恐らく20人のメンバーをその5倍から10倍、いやもっとたくさんの人が支えていて1つのプロジェクトになっていたに違いない。そして、チェキッ娘が売れるかどうかは、それを支えている人たちにももろに影響を及ぼしてしまうという、いわば運命共同体のようなものなのである。
チェキッ娘はビジネス的には失敗だった。CDの売り上げも低調、視聴率も最低、スポンサーのセガは社員を大量リストラ・・・チェキッ娘のプロジェクトに関わった人の中でさすがにすべてを失った人はいなかったと思うが、チェキッ娘に関わることで少なからず以前より悪い状況に陥ってしまった人は少なくないと思う。
これに関する議論は、この最終章を終えたあとも不定期に書いていこうと思っているが、とにかくそのようなバックグラウンドを理解したうえで、それでもひたむきに頑張るメンバーたちをプロジェクトという概念を無視してでも応援していこうと決めたのである。
チェキッ娘が売れなかったことと、メンバーたちの頑張りにはさほどの相関関係はない。極端なことを言えば彼女たちが頑張らなくても売れる方法があったと思うし、現実にチェキッ娘メンバーがあれほど頑張っていても売れなかったという現実もある。だから私自身は「プロジェクトには厳しく、メンバーにはやさしく」ということをモットーにチェキッ娘を応援していくことを決めたのであった。
私がDAIBAクシン!!GOLDを見たときに1stライブの告知がされた。当初は「ライブなんて・・・」と他人事であったが、日を追うごとに行きたいという気持ちが強くなってきて、ついにチケットを入手してしまった。初夏の6月のことであった。
ライブチケットを入手したものの、自分自身にはまだ抵抗があった。アイドルのコンサートには1回だけ行ったことがある。それは高校1年生の時の夏、中野サンプラザで行われた酒井法子さんのコンサートである。あの時はまだ高校生であったが、今はもう25歳である。自分自身や周囲を納得させられる言い訳もなかったし、その場を共有できる仲間もいないという孤独な中にいたのである。
そういうこともあって私はこのページを立ち上げることにした。このページを通じて自分と感覚の近い人たちと仲間になりたい。そしてライブを共有したいと考えたのである。
また、夏休みに入ってからは積極的に現場に行くことにした。ラジオのサテライトスタジオや名古屋キャンペーンなどに行き、わずかではあるけれども仲間を増やすことができた。
特に名古屋キャンペーンではいろいろなことがあった。仕事を兼ねて行った名古屋だったが、そこにいたファンとの出会いやキャンペーンの主役であるNEOちゃの3人にいちばん近いところで声援を送ることができた。
そして、2日間の1stライブを迎える。出会った人たちとは最終的に違う場所にはなったが、同じ時間を共有できたこと、知り合いが増えたこと、暇をもてあそばなくてもすむようになったことなど、着実に前進することができたと思う。
名古屋のキャンペーンのとき、1つだけ準備不足でできなかったことがあった。周囲のファンたちが空き時間にせっせと書いていたファンレターである。
タレントを応援するという面におけるチャネルはたくさんあると思う。テレビを見ること、CDを買うこと、現場に行くこと、ファンレターを出すこと、プレゼントを贈ること、新橋に行ってメンバーを待つこと、一緒にゆりかもめに乗ること、入り待ち・出待ちをすること、自宅を訪ねること・・・ファンがタレントを応援するスタイルは基本的に自由だと思う。しかし、私自身は「迷惑がかからない上で本人が喜ぶこと」という基準でそのチャネルを選択した。その究極がファンレターであった。
私は名古屋キャンペーンの帰りに早速レターセットを購入して手紙を書いた。その内容は至ってシンプルで、とにかく読んで元気が出そうなことだけを書くことにだけフォーカスした。
ファンレターは手渡しが常識らしいが、新橋に行くのには気が進まなかった私は番組あてにレターを出すことにした。ライブ前後を中心に10枚くらい書いただろうか。もとより期待はしていなかったが、1ヶ月くらいして返事が返ってきた。帰ってきたのは大瀧彩乃ちゃんと上田愛美ちゃんの2名であったが、これは純粋に嬉しかった。返事をもらえたという嬉しさもあったが、本人にメッセージが届いたということがわかったのがとても嬉しかったのである。
しかし、皮肉なことにチェキッ娘プロジェクトの終了はこのファンレターの返事で知らされることになる。レターの返事に“今TVで放送されてる「ありがとう」っていう曲はチェキッ娘の最後の曲なんです”と書いてあった。今考えれば、彼女はプロジェクトの終了について本当に悔しかったのではないだろうか。テレビでは決して言えないことを単なる一ファンにしか過ぎない私への私信に書いてきたのであるから・・・
そのレターと同じ週に、写真週刊誌とスポーツ紙に“卒業”という名のプロジェクト終焉宣言が掲載され、そしてその事実は否定しようがなくなってしまった。
私が受けたショックはやはり大きく、少し考える時間を要した。3泊4日で旅行に出かけ、ゆっくりと心の整理をつけることにした。結局、何通かのレターを書いただけで東京に戻ってきたのだが、そのときは仕事でもゆっくり考えたいことがあり、いい休息となった。
9月に入り、ラストコンサートの予約が始まった。「今度は失敗できない」そんな想いが通じたのか、ネットで知り合ったな何名かの協力を得て、かなり良い席を確保することができた。
その後2度目の観覧に当たってフジテレビへ行ったりして、9月はとにかくあわただしかった。ただ、その頃から見るもの聞くものすべてが自分の中ですばやく思い出へと変わっていく、そんな感覚になっていた。また、これとは対照的にチェキッ娘メンバーの動きはほとんどなく、本当に静かなものであった。
番組のラストは生で見ることができなかった。その日、私は仕事のため神戸へ行くことを決断していた。本当のラストは番組ではなくNKのステージだと思っていたし、自分もチェキッ娘ファンをきちんと卒業して自分の夢に向かっていかなくては意味がないと考えたからである。
9月はチェキッ娘とともに自分自身にとっても大きな動きのある月だった。
10月は本当にあっという間だった。自分の中から月−金の16:25と土の13:00という習慣が消え、またもとの毎日が戻りつつあった。ただ唯一、「11.3という記念日をきちんと迎えなくては」という意識があることを除けば・・・
そのステージは気がついたら始まっていた。極度の緊張感の中、ステージは流れるように幕を開けた。5000人の観客と19人のステージ・・・私はこの瞬間を決して忘れまいとして、その光景を目に焼き付けることだけを考えていた。そう、細かいことは後でビデオを見れば良いのである。
昼のステージは夜の予行演習であったが、楽しむ余裕もなく本当にあっという間に時間が過ぎてしまった。ほとんど休む暇もなく夜の部は始まった。
2公演は5時間にも及ぶ長いステージだったのに、あれから2ヶ月経つとその記憶も不鮮明になってくる。今覚えているのは、最初のキモチで気持ちよく踊っている大瀧彩乃ちゃんの姿、最後のNEOちゃステージ、さわやかな風のように流れていった上田愛美ちゃんのソロステージ、そしてこれで見納めになるかもしれない加藤真由ちゃんと久志麻理奈ちゃんの姿・・・そして最後は自分も泣いてしまっていてよく覚えていない。
ステージが終わった後は放心状態であった。19人が扉の向こうに消えていった瞬間、私にとってのチェキッ娘プロジェクトも完了となった。
私にとってチェキッ娘とはどんな存在だったのだろうか?「アイドルは擬似恋愛の対象である」ということがよく言われる。私自身にとっておニャン子クラブ時代は確かにそうだったかも知れないが、チェキッ娘の場合はそれだけではなかった。プロジェクト=ビジネスとして見た側面での面白さや“同時進行型”つまり彼女たちの成長とともに自分も成長させて行くというリアルタイムな楽しさがあった。毎日のように刻々と変化していく彼女たちとそれを取り巻く環境が、まるで自分たちの日常のすぐ隣で起こっているかのような感覚が良かった。そんなエキサイティングな世界が私にとってのチェキッ娘だったのではないかと思う。
そして最後に言いたいことは、最初はおニャン子クラブの面影を追ってはまっていったチェキッ娘に対して、いつからなのかはわからないけれども「おニャン子とチェキッ娘は別物」という意識が芽生えてきたことである。ことあるたびに私は両者を比較してきたが、この比較は基本的にはナンセンスなことで、時代も違えばメンバーも違えば統括責任者も違う。同じなのはフジテレビ主導のアイドル育成プロジェクトだったということだけである。私自身はこの部分を超越してこそ真のチェキッ娘ファンになれたような、そんな気が今ではしている。
私自身は1年間のプロジェクトの約半分にしか関われなかったが、前半の半年間のブランクについて「もったいなかった」とか、そういうことはまったく思っていない。チェキッ娘が始まった頃は前の仕事に打ち込んでいたし、きっとチェキッ娘の入る隙間なんてなかったと思う。それがたまたま自分の中にいろいろなことがあって、いや、きっとそれは私自身がチェキッ娘に出会うための必然的なことだったのかも知れないし、その意味では出会うべくして1999年5月に彼女たちに出会えたのだと思う。
そして、わずか半年間だったけれども、その半年間はいつも「悔いを残さないように」ということだけを心がけて応援を続けてきた。プロジェクトとしては不完全燃焼だったけれども、私自身は最後の最後まで一生懸命応援することができ、完全燃焼できたと思っている。
きっとチェキッ娘のメンバーも完全燃焼できたのではないだろうか?少なくとも私はそう信じていたい・・・
この章の最後に、私がこのページを通じて知り合った大切なチェキッ娘ファンの方々を紹介したいと思う。彼らに出会えたことで私のチェキッ娘ファン生活は10倍にも100倍にも楽しくなった。そして、プロジェクトが終了した今でも連絡を取り合い、卒業したチェキッ娘メンバーの情報交換を続けている。
nobuさん(愛知県)
あいばいっきさん(東京都)
さあもんさん(東京都)
タカさん(東京都)
チェキッ娘を通じて知り合ったすべての人に「ありがとう」を伝えたい。
1999年12月30日 BATCH
BACK